事実を整える

Nathan(ねーさん) 法的観点を含む社会問題についても、事実に基づいて整理します。

新学習指導要領案についてのパブリックコメント2

「厩戸王」の表記に対するパブリックコメント

「厩戸王」の表記に対する意見に特化したパブリックコメントをしましたのでお知らせいたします。*1

 小学校学習指導要領案 第2章第2節 社会 第二 各学年の目標及び内容〔第6学年〕3内容の取扱い(2)ウにおいて、『聖徳太子(厩戸王)』とあります(該当ページは44ページです)。  中学校学習指導要領案 第2章第2節 社会 第2 各分野の目標及び内容 〔歴史的分野〕3内容の取扱い(3)アにおいて『厩戸王(聖徳太子)』とあります(該当ページは40ページです)。

第二 「厩戸王」の表記を用いることをやめることを求める理由

1 原則論

(1) まず、「日本書記」においては「厩戸豊聡耳皇子」「厩戸皇子」の表記が存在し、この者と「聖徳太子」に人格の同一性があるという見解について。これは、その内容に学問上疑義が生じてはいるものの、実在する歴史書物に明確にその名称が存在していることが言えます。また、厩戸皇子と聖徳太子が同一人物であるということは、両者の実績として書かれていることや生没年、事跡などから同一人物であるとされており、一応の説得力があります。そうであるからこそ、これまでの指導要領には「聖徳太子」の語が用いられてきたものと認識しております。
(2) したがって、「聖徳太子」「厩戸皇子」という用語が用いられるべきということが第一義的に考えられなければならず、それが自然科学的分析や歴史学の原則だということを指摘します。

2 上記と異なる立場たる「厩戸王」を正当とする説の立ち位置

(1) 歴史書物の記載を根拠とする上記見解に対し、「厩戸王」の表記を正当とする説においては、「厩戸王」という表記が何等かの歴史書物の記載を根拠にしているということを寡聞にして知りません。つまり、解釈によって導かれた見解です。そうであるならば、「厩戸王」が正当とする見解からは、次のような論証が必要であることが、一般的な論理から要請されます。
(2)ア 「日本書記」の記述が全くの虚偽であるため、「厩戸皇子」、「聖徳太子」の語を用いるべき原則は存在しないということ
イ 「日本書記」の記述が全くの虚偽であるとまでは言えなくとも相当程度疑わしいという場合、「厩戸王」の表記が第一義的であるべきということが、相当程度の蓋然性をもって正しいという比較衡量の結果の立証
ウ いずれの場合でも、或いは日本書記の記述を考慮せずに「厩戸王」の表記が第一義的であるという場合でも、「厩戸王」の表記が相当程度の蓋然性をもって正しいということの立証
(3) また、上記のような論証の必要は、「厩戸王」の表記が何等かの歴史書物に記載があると仮定した場合にも妥当します。
(4) 以上より、「厩戸王」の表記を第一義的にすべきとする立場の者の側から、相当程度の蓋然性をもって正しいということの立証責任があります。更に言えば、平成20年度の学習指導要領においては「聖徳太子」の表記が用いられていた以上、現状を変更する者の側においてこそ積極的立証責任があります。「厩戸王」推進派がどんな論理で見解の正当性を主張しているかは預かり知りませんが、どの見解に立ったとしても、上記の一般論理に照らして今一度その見解の精査をお願い致します。

3 歴史学固有の考え方からの反対意見

(1) 上記は、自然科学的、実証主義的な観点の土俵から述べてきました。それとは異なる観点から、現状変更をする「重み」を理解していただきたく、以下の考え方を指摘します。
(2)ア 歴史学は時間的連続性の概念を基軸として一定の事象を総合することによって初めて成り立つ学問であり、必要以上に個々の要素に分断して捉えてしまうと、学問としての意味がなくなること。
イ 聖徳太子の名は、わが国の精神的・社会的秩序の礎を築いた人として、永らくすべての国民の間に浸透し、親しまれ、紙幣の肖像にも使われてきたこと。
(3) これらの視点は、最終的な決定に際して重要視すべき要素として考慮頂くようお願い致します。

4 傍論:支那視点の歴史認識の強要の可能性

(1)支那においては「王」は「皇帝」「天子」より格下の意味があり、「隋書」で倭国の王との表記があるのは侮蔑の意味があります。
(2)「厩戸王」推進派の中には「日本書記」を信じない一方、「隋書」の記述を無批判に受入れ、それを前提に論を展開する者が多数みられます。支那の視点を第一とし我が国の書物が劣後するとの決めつけに与することはできません。「隋書」の記述にも疑義が呈されています。
(3)よって、「太子」や「皇子」に替えて「王」の表記とすることは支那視点の認識を流布させる者に与することになり、採用してはならない。

第三 結論

「厩戸王」の表記は学習指導要領に定めてはならないこと、「聖徳太子」の語を第一義的に使用すべきことを求めます。

以上

あとがきとパブリックコメントの書き方

疲れました。2000字に収めるのに苦労しました。
さて、ここまで書いていてなんですが、私自身、パブリックコメントとしてこのような論じ方が適切かどうか自信がありません。まず、行橋市議会議員の小坪慎也さんが推奨するように、パブリックコメントは、その数が多ければ「反対が多い」というだけの理由で、改正がお蔵入りする可能性があると指摘されています。この観点からは、『細かいことは後回しにして、とにかく何らかの反対意見を書く』という行動が有効なのだと言えます。(もちろん、小坪さんも注意を促しているように、コピペなどで同じ文章があると、排除される可能性があるのでそれは止めましょう。)
また、新しい教科書をつくる会もパブリックコメントしていましたが、その内容は、「学説の大勢は何か」を指摘するものであり、聖徳太子虚構説が少数説でありかつ根拠薄弱であることを簡単に指摘するにとどめています。
いずれのコメント方針も、おそらくパブリックコメントの位置づけと、それを受け取る官僚の行動基準に照らして行われていると思われます。したがいまして、パブリックコメントの土俵で、いちいち論理を詰めて説得を試みるような文章を書くというのは、本来は適切ではないのかもしれません。
(あまり意味のない行動を時間かけてやっている可能性があります)
論理を詰めて官僚に判断の変更を促すというのは、「新しい歴史教科書をつくる会」がやっているような実績ある者からの働きかけであったり、青山繁晴参議院議員が指摘するように「核となる議員の動き」によるものがメインであろうという感覚はあります。
しかし、素人からのパブリックコメントであっても、千差万別なのであり、中には論理を詰めた意見が無いといけないと思います。いろんな角度からの多くの意見があって初めてパブリックコメントは成り立っていると思いますので、数は必要ですが、「とにかく数」というわけでもないということは認識するべきだと思います。
公民分野でも結構おかしな表記変更があるようですが、それについて調べてパブコメする気力はありませんので、他の有志の方々におまかせしようと思います。

※追記:その後、学習指導要領に「聖徳太子」は残る

その後、学習指導要領に「聖徳太子」は残りました。
また、パブリックコメントの多さが取り上げられ、相当数の国民が反対していたことも挙げられています。本件にまつわる社会状況も含めたまとめを後年に作成したので以下リンクを貼り付けます。

以上

*1:※本記事は平成29年=2017年の学習指導要領改訂案に関するものです