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事実を整える

政治関連など報道されていることで、よくわからない点や誤解が多い点について、事実に基づいて整理します

聖徳太子抹殺の謀略:「厩戸王」への記述変更に正当性はない

 

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聖徳太子の用語の扱いについて。この問題は

【「厩戸王」の表記へ変更する必然性の欠如】

が問題なのです。

上記動画で示した8日の衆議院文部科学委員会における笠浩史議員(民進党)の質問に続き

9日の参議院文教科学委員会でも、松沢成文議員(無所属)が、質問を行いました。

参議院インターネット審議中継

関連部分は3時間46分からの10分程度です。

松沢成文議員の、歴史教育の連続性の観点のご指摘はお見事でした。

高望みするなら、この答弁において文科省厩戸王という書物に記載のない名称を用いるよう変更することはなぜなのか?という点について明らかにしてほしかったです。そもそもこの点からして疑義があるのが「厩戸王」なのですから。これについてはパブリックコメントにおいても指摘しています。

nathannate.hatenablog.com

 

聖徳太子虚構説に立たず、「厩戸王」の表記へ変更する必然性の欠如

なにはともあれ、本要領案は3月中には正式決定されるようですが、それまでに一般国民のみならず、政界においても、しかも超党派スクラムが形成されているということは喜ばしい限りですね。

ただ、気になることがあります。それは松野文部科学大臣の3時間50分20秒あたりの答弁に表れていたように

『「厩戸王」の採用は、聖徳太子虚構説に立脚したものではない』

という趣旨の発言があったということです。

これは、これまで「新しい歴史教科書をつくる会」などが反論していた、虚構説は通説ではないという論理が空振りに終わるものであり、注意が必要です。これは、私が懸念していた事でもあり、つくる会側にもメールで警鐘をならしていたものでもありますが、伝わらなかったようです。

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では、だれがどのような説に立脚して歴史上の書物に記載のない文言である「厩戸王」という表記を推奨したのか?その根拠はなんなのか?ということが謎として残ります。

聖徳太子虚構説に依拠しない「厩戸王」説というのは、存在しないのでは?
なぜなら、「新しい歴史教科書をつくる会」が虚構説は通説ではないという主張をするにとどめているからで、それで十分と考えている節があるからです。

そうだとすれば、何らの学説にも依拠していない、単なる「発案者」の思いつき?ということになってしまうということでしょうか?

 

これは、そうとは言えないと思うに至りました。

 

聖徳太子」「厩戸皇子」の記述は、没後に編纂された「日本書記」の中での記述です。

それ以前に「天皇」や「皇子」という号を用いてはいなかったという研究があります。
(この研究自体は、おそらくそうなのだろうと信じ、その前提でいきます)

そのため、聖徳太子の生存当時は日本最古の歴史書よりも前の世代であるから、この場合は中国の書を「参照」することで、「王」や「大王」という名称で呼ばれていたという推測が成り立つのであり、これには一定程度の合理性があります。

したがって、「厩戸王」の呼称それ自体が歴史学上、全く根拠のないものであるとは言いきれません

(ただし、推測の範囲を超えていないと考えます。そもそも我が国の書物は信用ならず、中国の書物は信用できるとの前提に立つことの害悪については別日記参照)

 

同時に、歴史教科書の問題において重要なのは

歴史教育として何が適切か

という観点です。

 

聖徳太子という呼称は、広く国民の間に浸透しています。

太子堂」という建物、「太子道」という道路があるように、聖徳太子の呼称を前提とした歴史的遺産がたくさんあります。

 

その中でわざわざ「厩戸」の呼称を用いて教育をする必然性がどれほどあるのか?

 

松野文部科学大臣は、答弁において、古代史の理解をすすめるという教育的観点から今回の表記変更に至ったと言いました。

その観点からも、「厩戸」の名称を用いるよう変更することの害悪というのは計り知れないです。

 

なお、松野文部科学大臣に見解を求める質問がありましたが、大臣は「パブリックコメントで広く国民から意見を集めている最中であるから、その中で発言することは避ける」という趣旨のご発言をされました。

これは至極まっとうな答弁であり、大臣がこの段階で答弁してしまっては、国民に予断を生じさせかねないため、正当なものであるといえます。

まとめ:歴史学の「推測」と歴史教育の連続性のどちらを取るか

  • 厩戸王」の呼称は、一定程度の歴史的研究から推測されるもの
  • しかし、歴史学の「推測」と歴史教育の連続性のどちらが優先されるべきかという点にかんがみると後者を優先すべきである
  • なぜなら、既に聖徳太子の呼称が古くから日本国民に浸透しているからである
  • そのような中、わざわざ「厩戸王」という呼称を広める方向へ変更することは、害悪でしかなく、必然性がない
  • したがって、聖徳太子の呼称が第一義的であることが最も正当性を有する

 

なお、後日検定教科書等についての調査結果をUPします。

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